危機修復のマネジメント―よいことが危機を生むジレンマ

2026/06/22
経営学者@IncidentTech

よい組織ほど危機を呼ぶ?:複雑性が生むコンプライアンスの歪み

「よい組織ほど不祥事を起こさない」という考え方は、一見すると当然のように思える。優秀な人材を集め高い業績を上げている企業ならば、内部統制を整備する余裕もあるだろうし、危機から遠い存在であるようにみえるからだ。しかし現実には、社会的評価の高い組織であっても大きな不祥事を起こしてきた。東芝、フジテレビ、ニデック、あるいは海外のUberやエンロンなどは、その典型例である。

なぜ「よい組織」が危機を招いてしまうのか。その背景にあるのが、学術用語では「制度複雑性」と呼ばれる問題である。組織には複数の「正しさ」が同時に求められる。利益を出せ、成長しろ、株主価値を高めろという経済的要求がある一方で、倫理的であれ、透明であれ、法令を遵守せよというコンプライアンス上の要求も存在する。問題は、それらが質的に常に両立できるわけではないという点にある。

たとえばUberは2017年に、数十名の解雇や当時のCEOの辞任まで招いたハラスメント問題を起こしている。社内では、急成長を支える成果主義が極端に強調され、攻撃的な競争文化が組織内に定着していた。成果を上げる人材が賞賛される環境では、多少の問題行動は「優秀さ」の副作用として見逃されやすくなる。つまり、経済的な「よさ」が、倫理的な「よさ」を蹂躙していたのである。

実際に、業績が高い企業ほど違法行為を起こしやすいという研究がある。重要なのは、業績不振だから不正をするのではなく、「高い期待」が不正を誘発するという点だ。市場や投資家、メディアから常に成果を求められる組織は、その期待を裏切れない。すると、本来なら許容されない行為も、「期待を維持するためには必要だ」と正当化され始める。

さらに厄介なのは、こうした歪みが組織内部では合理的に見えてしまうことである。高業績や周囲の期待を維持している以上、「自分たちは正しい方向に進んでいる」という感覚が強化される。外部からの批判や警告は、「現場を知らない理想論」として退けられやすい。危機は、腐敗した組織だけでなく、むしろ強い成功体験を持つ組織の内部から生まれることがあるのだ。

つまり、組織の危機は、単なるモラルの欠如ではなく、複数の要求のあいだで組織が引き裂かれることで発生する側面をもっている。利益を求めることも、社会的責任を果たすことも、どちらも現代企業にとっては正しい。しかし、その「二つの正しさ」が衝突したとき、組織はしばしば危機へと傾いていく。

だからこそ、危機を「悪い組織の失敗」とだけ理解するのでは不十分である。むしろ、よい組織だからこそ抱え込む矛盾があり、その矛盾を認識できないまま成功を続けるとき、危機は静かに組織内部で育っていくのである。


倫理性のパラドックス:透明化・厳罰化が不正を増やす

組織の危機、たとえばコンプライアンスをめぐる議論では、「もっと透明性を高めるべきだ」「厳しく処罰すれば不正はなくなる」といった主張がよくなされる。たしかに直感的には正しいように思える。監視を強め、ルールを厳格にし、違反者を厳罰化すれば、不正は減るはずだという発想である。

しかし近年の研究では、倫理性を強めすぎることが、逆に不正や危機を増やす可能性が指摘されている。これが「倫理性のパラドックス」である。

いわく、倫理規範の明確さや透明性は、一定水準までは不正抑止に機能する。しかし、それが過度になると、逆に不正が増加する傾向がみられたという。組織内で「絶対に間違ってはいけない」という空気が強くなりすぎると、ささいなことでも不正やミスだと認識するようになる。

たとえば学校で考えるとわかりやすい。非常に厳格な学校では、些細なトラブルでも重大問題として扱われ、不祥事の件数は増えていく。一方で、いい加減な学校では問題が表面化しないため、一見すると「平和」に見えるかもしれない。つまり、不祥事の件数の多さが、そのまま組織の腐敗度を意味するとは限らないのである。

さらに過剰な倫理要求は、組織内部に萎縮を生む。少しでも問題を起こせば非難される環境では、人々は自由に議論しなくなる。結果として「本当に危険な問題」は表に出てこなくなる。透明性を高めようとしていたはずが、むしろ沈黙を生み出してしまうのである。

これはSNS時代の炎上文化とも重なっている。現代社会では、組織に対して「完全な倫理性」が求められがちである。しかし現実の組織は、人間が運営している以上、不完全さを避けることはできない。だからこそ危機の未然防止のみならず危機対応が重要であるわけだが、にもかかわらず、わずかな逸脱すら許されない環境を作れば、人々は問題を認めること自体を恐れるようになる。

重要なのは、「倫理的であること」と「倫理性を最大化すること」は同じではないという点だ。組織には、問題を指摘できる余白や、失敗を修正できる柔軟性が必要である。「水清ければ魚棲まず」と言うように、組織もまた、潔癖になりすぎると持続可能性を失ってしまう。

危機を防ぐために必要なのは、単純な厳罰化ではない。むしろ、問題を早期に認識し、修復可能な状態で扱える組織文化を育てることなのである。


「やり過ごし」が危機を不可視化する:日常の合理性による看過

組織の危機は、必ずしも「誰かの悪意」から生まれるわけではない。むしろ多くの場合、日常業務を円滑に回そうとする合理的な行動の積み重ねが、結果として危機を不可視化し、育てていく。

その典型が、「やり過ごし」と呼ばれる行動である。これは、面倒な問題や解決困難な課題に対して、積極的に対処せず、時間が過ぎるのを待つという組織的実践を指す。

一見すると無責任な態度に思えるかもしれない。しかし現実の組織では、すべての問題に真正面から対応することは不可能である。会議、クレーム、上司からの指示、突発的なトラブル——日々大量の課題が押し寄せるなかで、組織は限られたリソースで業務を回している。そのため現場では、「今すぐ対応しなくてもよい問題」を適度に流す技術が発達することになる。

実際の研究でも、多くの企業で「やり過ごし」が日常的に行われていることが示されている。しかも、それによって組織はある程度うまく機能している。問題すべてに反応していたら、組織は過負荷で停止してしまうからだ。

ところが、この合理的行動は危機対応において大きな弱点になりうる。日常的に「後回しにする」「様子を見る」という文化が定着している組織では、重大な危機の兆候まで同じように処理されてしまうからである。

特に危険なのは、原因が曖昧で、複数部門にまたがる問題である。自動車メーカーのリコール問題を分析した研究では、クレーム対応の仕組み自体は存在していたにもかかわらず、原因特定に時間がかかり、部門間調整もうまくいかないまま、問題が放置されたケースが示されている。

ここで起きているのは単純な怠慢ではない。むしろ、通常業務を維持するための合理的な判断が、危機の可視化を妨げるのだ。誰かが意図的に隠蔽しているわけではなく、「いまは忙しい」「まだ確定していない」「もう少し様子を見よう」という判断の連続によって、危機が不可視化されていく。

そして組織は、不思議なことに、それでも回ってしまう。だからこそ危機は深刻化するまで認識されない。

危機管理というと、特別な非常時対応を想像しがちである。しかし実際には、危機を生む最大の要因は、平時の合理性そのものかもしれない。組織を効率化するための知恵が、同時に危機を見えなくしているのである。

参考文献:舟津昌平, & 野村浩司. (2025). よい組織になれば、よくないことは起きないのか―組織の危機対応の理論的背景. MMRC DISCUSSION PAPER SERIES, (575), 1-14.